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私も創価三世自由に育ててくれた親の為に信心しています 自らが望んで入会した訳ではないので親=創価創価=親なのです 親が亡くなったら、脱会すると腹を決めています 牧口先生から創価教育学会が始まり、戸田、池田と思想も変化していきました日蓮宗を利用した戦後の負の産物でしかないのです宗教が存在する限り争いのない真の平和は訪れないのです 私を導いてくれる御先祖親、家族、自分を崇拝し生涯、死後も愛し続けます。
頭じゃわかってるんだけど、どうしても客観的になれないんだよね、親子ってのは。幼い頃切望した気持ちというのは、いくら時間が経とうと何をされようと残ってるし、いくら合理的な人でも感傷的にならざるを得ない。だから、このケースだって「親は自分を愛してくれてるはず」という思いが「親は自分よりも宗教が大切」という明らかな事実を覆い隠しててその事実がわからないという訳じゃなくて、ただ気付きたくないだけなんだ。
宗教というのはどうやれば自分のところにお金や財産、肉体を集めることができるか、ということを真剣に考えて神という概念を発明した創作者が創り上げたもの。共産主義の開発と物凄く似ている。結果的には持てるものから奪い、持てない者からも奪い去る技法。そういうものにハマるというのは弱肉強食の世界の強者の論理にドハマリしているということでもある。その褒美は麻薬のような精神的快楽である。
宗教って元々は古代の生活の知恵集で、今でいうwikipediaみたいなもの「正しい事を書く」ものが「書いてある事が正しい」にすり替わる、という点も含めてねもしwikipediaに書いてあることを「疑いようの無い真実」だと盲信している奴が居たらどう思う?そういう事だよ
旧約聖書続編にある『ヨブ記』などを読んでいると信じている神自身にめちゃくちゃにされてそれでも神を信じ抜く事によってヨブは試練を乗り越えてさらに繁栄していくというエグい話があります。 多分信仰とはこういうものでしょう。 新約聖書のイエスの一粒の麦の種の話もえぐい。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも引用されていますが、一粒の麦の種は土に落ちて死ねばそこからまた麦が生えてより多く実っていくという事ですが、これは自己犠牲によって繁栄の礎とすることを、イエス自身や、その弟子や信者に向けた言葉のような気がします。
私も創価三世
自由に育ててくれた親の為に信心しています
自らが望んで入会した訳ではないので
親=創価
創価=親なのです
親が亡くなったら、脱会すると腹を決めています
牧口先生から創価教育学会が始まり、戸田、池田と思想も変化していきました
日蓮宗を利用した戦後の負の産物でしかないのです
宗教が存在する限り
争いのない真の平和は訪れないのです
私を導いてくれる御先祖
親、家族、自分を崇拝し
生涯、死後も愛し続けます。
頭じゃわかってるんだけど、どうしても客観的になれないんだよね、親子ってのは。
幼い頃切望した気持ちというのは、いくら時間が経とうと何をされようと残ってるし、いくら合理的な人でも感傷的にならざるを得ない。
だから、このケースだって「親は自分を愛してくれてるはず」という思いが「親は自分よりも宗教が大切」という明らかな事実を覆い隠してて
その事実がわからないという訳じゃなくて、ただ気付きたくないだけなんだ。
親が立派ってのには同意しかねる。山上があれほどの事をやっても旧統一教会を信仰し続ける母親が立派か?
宗教というのはどうやれば自分のところにお金や財産、
肉体を集めることができるか、ということを真剣に考えて
神という概念を発明した創作者が創り上げたもの。
共産主義の開発と物凄く似ている。
結果的には持てるものから奪い、
持てない者からも奪い去る技法。
そういうものにハマるというのは弱肉強食の世界の強者の論理に
ドハマリしているということでもある。
その褒美は麻薬のような精神的快楽である。
宗教上の理由って言っとけば理不尽な要求が通ってしまうのが困るよね
宗教って元々は古代の生活の知恵集で、今でいうwikipediaみたいなもの
「正しい事を書く」ものが「書いてある事が正しい」にすり替わる、という点も含めてね
もしwikipediaに書いてあることを「疑いようの無い真実」だと盲信している奴が居たらどう思う?
そういう事だよ
旧約聖書続編にある『ヨブ記』などを読んでいると信じている神自身にめちゃくちゃにされてそれでも神を信じ抜く事によってヨブは試練を乗り越えてさらに繁栄していくというエグい話があります。
多分信仰とはこういうものでしょう。
新約聖書のイエスの一粒の麦の種の話もえぐい。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも引用されていますが、一粒の麦の種は土に落ちて死ねばそこからまた麦が生えてより多く実っていくという事ですが、これは自己犠牲によって繁栄の礎とすることを、イエス自身や、その弟子や信者に向けた言葉のような気がします。
斗司夫の言ってることど正論で気持ちええわ
そっかーー。。宗教にのめり込んでも元気に生きてる人とは、根本的に致命的な違いが有るんだな。。なぁなぁで付き合うとか有り得ないんだな。
幸せのために行う宗教を取り入れると
ほぼほぼ地獄に突き落とされる。
地獄にのたうちたければ
宗教団体に入るのが手っ取り早い。
あなたのためだから、は危ないですね。
全財産お供えしなければ不幸になる!私は貴方の幸せを願っている!!
と給料差し押さえしようとされた事があります くたばれ天理教
本当に自分の幸せを。
親は大事にするべきで、ないがしろにするのはけしからんと
世間から刷り込まれているから切るという選択肢が持てないのだと思う
子供の時にひどい目に遭わされているといくら年取っても抵抗できなくなってしまう
価値観が合わない人同士はわかりあえませんね
親だろうと我が子だろうと他人は他人
他人を変える事は基本できません。