【元動画はこちら】↓ https://www.youtube.com/watch?v=4k2kwU5DaA8&t=1471s ☆千と千尋の神隠し考察シリーズ↓ 【千と千尋①】劇 … source Favorite0
人の数だけ答えがあるというのは面白いですね数学のように答えが1つしかないものはそこに至る過程を考えるのが面白いですが、こういった考察は切り口から結論まで無限にあって、正解も間違いも無いというちょっと無秩序な所があって飽きがきません
高校までの文芸作品に対する考察は、「一般的な解釈の拡張と認識」であり大学以降の自分で何かに対する考察は「自分なりの解釈」なんだよな。当たり前だけど。これが面白い。ちなみに国語の点数取れないやつは後者で物事を見てるから点数低いんよ
まあ、大体のことは既に先人が論じてて、ここで言ってるような事も、イタリアの記号学者・哲学者・作家のウンベルト・エーコが1962年に上梓した『開かれた作品』で、「芸術作品(エーコはテレビ局のプロデューサーでもあったので、芸術作品だけでなく、テレビ番組のような娯楽作品も議論の射程に入ってる)とは、享受者の積極的介入によって可逆的に意味内容が発見される『開かれた』形態である」と言ってる。 エーコは、さらに「あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を蘇らせる」とも言っていて、「潜在的に受けての解釈は無限にある」とし、簡単に言えば、「開かれた作品(閉じられた作品という概念はありません)の前では、誰でもが自由である」とする。 そして面白いのは、「俺○○が増えると、作品に参加することが出来る」、つまり二次創作が可能になってくるという話。エーコの『開かれた作品』が出版されたときの、後にノーベル文学賞を受賞する詩人のエウジェニオ・モンターレによる、「もし『開かれた作品』が増え続け、批評家が判断するのではなく、すべての価値判断が受け手に任されるような状況に陥れば、芸術は産業と何ら変わらなくなってしまうのではないか」という批判。二次創作界隈、特にコミケでの「二次創作の産業化」「二次創作の商業利用」が問題視されている昨今、モンターレの批判を考えたとき、「開かれた作品」が創造的なものになり得るのか、あるいは各々によって消費されて終わってしまうのか、『開かれた作品』が呼び込んだ問いが、今、現実として我々の現前に顕れているのです。
作者の言うことが絶対というのであれば「この作品は世界一おもしろいです」とだけ書けば済む話。それぞれのシーンに「このシーンは○○という意味を持っています」と説明書きを残しておくのも有効だろう。それがいかに無意味な行為か、誰でもわかると思うけどね。
毎回興味深く拝見しております。生意気言ってすみませんが、今回の先生のお話の中で「好奇心」と言う単語が出て来なかったが不思議でした。大学に入ってからのシステムとか問題に対するアプローチの仕方とか確かに高校の授業とか違うでしょう。その不幸な高校生クンも考察に意味あるの?とか、まあ自分の人生をも意味あるのか、つまらない物にしてますよね。それはとりもなおさず「好奇心」の欠如で、それは「想像力」「創造力」が完成されない事ですよね。先生はシステムの相違を説かれましたが、この様な若い自我もまだ危うい人達の「好奇心」を自覚させてあげるのも先生の使命ではないのでしょうか?非常に生意気言って申し訳ありません。おまけに長文駄文ひらにご容赦くだされ(;^ω^)。
人の数だけ答えがあるというのは面白いですね
数学のように答えが1つしかないものはそこに至る過程を考えるのが面白いですが、こういった考察は切り口から結論まで無限にあって、正解も間違いも無いというちょっと無秩序な所があって飽きがきません
楽しんだもの勝ちでいいでしょう
そもそも作者が明確な回答準備してないままの作品だってあるんだから(禁句)
正解がないのが美しいと俺は思ってる。
考察は面白い
俺の場合は、ガンダムの考察を
富野由悠季監督に直接ぶつけて
自身の理解度測ってたから全く無駄では無いけどね。
また公演活動してくれないかな
関係ないけど後ろの棚に個人的に欲しいものが多すぎる
俺○○、セカンドクリエイター、いい言葉だなぁ。勉強になりました。
考察はしてる人にとっては呼吸同じレベルでしてるから無駄とか無意味の領域を超えてると思う考察勢です
ブリーチの考察してた人が、原作者に認知されてた話はすごい好き。
脚本の人そこまで考えてないと思うよ。
はっきりしてない答えを考えるのが好きなので大学に行くのが待ち遠しい
極論言いたがる人いるよね
高校までの文芸作品に対する考察は、「一般的な解釈の拡張と認識」であり大学以降の自分で何かに対する考察は「自分なりの解釈」なんだよな。当たり前だけど。これが面白い。ちなみに国語の点数取れないやつは後者で物事を見てるから点数低いんよ
この人に共通テストの現代文解いて欲しい。
絶対おもろい
まあ、大体のことは既に先人が論じてて、ここで言ってるような事も、イタリアの記号学者・哲学者・作家のウンベルト・エーコが1962年に上梓した『開かれた作品』で、「芸術作品(エーコはテレビ局のプロデューサーでもあったので、芸術作品だけでなく、テレビ番組のような娯楽作品も議論の射程に入ってる)とは、享受者の積極的介入によって可逆的に意味内容が発見される『開かれた』形態である」と言ってる。
エーコは、さらに「あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を蘇らせる」とも言っていて、「潜在的に受けての解釈は無限にある」とし、簡単に言えば、「開かれた作品(閉じられた作品という概念はありません)の前では、誰でもが自由である」とする。
そして面白いのは、「俺○○が増えると、作品に参加することが出来る」、つまり二次創作が可能になってくるという話。
エーコの『開かれた作品』が出版されたときの、後にノーベル文学賞を受賞する詩人のエウジェニオ・モンターレによる、「もし『開かれた作品』が増え続け、批評家が判断するのではなく、すべての価値判断が受け手に任されるような状況に陥れば、芸術は産業と何ら変わらなくなってしまうのではないか」という批判。
二次創作界隈、特にコミケでの「二次創作の産業化」「二次創作の商業利用」が問題視されている昨今、モンターレの批判を考えたとき、「開かれた作品」が創造的なものになり得るのか、あるいは各々によって消費されて終わってしまうのか、『開かれた作品』が呼び込んだ問いが、今、現実として我々の現前に顕れているのです。
フロム脳なんて言葉が生まれるはるか前からジブリとかで同じような事をしている人が沢山いたと思うと面白いですね。
大多数から映画好きアピールで好感を得たいなら、教科書までで充分。
俺〇〇やってる人は極少数だし、煙たがる人も少なくないよ。でも本当の友達を作るなら必要かもね。
村上春樹の熱狂的ファンのことを「ハルキスト」と揶揄して批判する人もいるけど、テキストを深読みする視点を持つことができると様々なことが楽しくなりますね。
大学で学ぶ学問の面白いところ。
たしかに俺にとってのSW旧三部作は「特別編」のほうだな。まぁあれは作者自らが後付してるものだけどw
いつまでも現代文やってる人って結構いるよな
多分、作者はそこまで考えていない(これが真実)
言われてみればガンダム作品なんてほとんどが、俺ガンダム、セカンドクリエイターによる二次創作といえるもんな。
(いい意味で!アナザーガンダムも好きです)
著者に聞けばいいの問題は宮崎駿に聞きに行って
「君はそんなことも分からないのかね!作品を見れば分かるだろ!!」
と怒られそうなことだな。
国語だと、こう解釈しろと押しつけてくるのに、何故か美術だと自由に思ったままに見ればいいのと言われる不思議。
美術だって、解釈の仕方があるのに。
やっちゃいけないのは、二次創作や考察を拗らせて、原作の設定を否定すること
コイツバカだな。
大学で答えを求めないのは
大抵その作者が亡くなってるからだよ。
宮崎駿は生きてるんだから
本人に聞くのが一番
要するにそれがオタクなんだけどね
今は教科書通りに応援して
礼儀正しく、周りに迷惑かけず
グッツを買って支える
太客がオタクみたいに思われてる
作者の言うことが絶対というのであれば「この作品は世界一おもしろいです」とだけ書けば済む話。
それぞれのシーンに「このシーンは○○という意味を持っています」と説明書きを残しておくのも有効だろう。
それがいかに無意味な行為か、誰でもわかると思うけどね。
富野はママなんだよね
コミュニケーションも情報も受け手に選択権がある
うちの高校の先生ジブリの解説、このゼミみたいな授業永遠としてる
考察とか関係なく、人の意見を聞くってのは面白いよね。自分の意見を考えてぶつける、それが広がれば界隈自体が盛り上がる。
考察が1番オタクできる瞬間だと思ってる
ダンテの神曲と一緒。ある作品を考察することで、新しい価値観を見いだすことができる
解答がある問題と、答案を示す問題は似てるけど違うと。
毎回興味深く拝見しております。生意気言ってすみませんが、今回の先生のお話の中で「好奇心」と言う単語が出て来なかったが不思議でした。大学に入ってからのシステムとか問題に対するアプローチの仕方とか確かに高校の授業とか違うでしょう。その不幸な高校生クンも考察に意味あるの?とか、まあ自分の人生をも意味あるのか、つまらない物にしてますよね。それはとりもなおさず「好奇心」の欠如で、それは「想像力」「創造力」が完成されない事ですよね。先生はシステムの相違を説かれましたが、この様な若い自我もまだ危うい人達の「好奇心」を自覚させてあげるのも先生の使命ではないのでしょうか?非常に生意気言って申し訳ありません。おまけに長文駄文ひらにご容赦くだされ(;^ω^)。
アロハ着て歌歌ってたら桑田佳祐さんに見えて来る不思議。
俺の〇〇は自由にやったらいいですが、俺のコロナ治療だけは勘弁ですね。
ファンが色々語り合えるのは楽しいものです。
でも作者が意図してなかったり考えてなかったりしたのを考察したりしてそのせいで評価が誇張される場合とかはいやだなあ
日本の国語教育では 、なかなか作者論からの脱却ができていないんだよなぁ。
大学の国語教育研究者たちは、読者論で国語教育すべきって言ってるんだが。
宗教に当てはめると旧約聖書絶対ってことか。そこで出てくるのが2次創作「だが原作者は全てを語り尽くしてはいなかったのだ!」
正解を押し付けられた人は考察否定派になっちゃうわな。
自由だよ〜って場で妄想披露してみるとええで。