中学生でプロ棋士になった現名人の渡辺明「はっきり言います。僕は将棋の天才です」「自分が竜王になれたのは、誰よりも努力したからだ。誰だって努力すればプロになってタイトルくらい取れる。他の人たちは、全然努力をしていない」自分よりも弱い人たちに対して、心の中で「真面目にやらなかった人」とレッテルを貼って馬鹿にしていたんです。 だけど、息子に将棋を教えるようになって、自分の間違いに気付きました。 昔の自分に簡単にできたことが、息子は全然できないんです。 実は、子供に将棋を教えるという経験がそれまで一度もなかったので、本当に驚きました。 「え?なんでこんなことが分からないの?」って。 それでやっと理解しました。「あぁ、自分には将棋の才能があったんだ」と。 もちろん、たくさん努力もしましたよ。 だけど、それだけではなかった。才能があったからここまで来れたということが、ようやく分かったんです。 誰でも努力を続ければ、確実に上達していくと思います。 それは事実です。だけど、上達スピードは人それぞれ。努力を続けてもプロになれない人もいるということに、僕は気付きました。みんな努力していないと決め付けて馬鹿にしていた昔の自分は、我ながら最低の人間です。 今、息子にはサッカーをやらせています。 サッカーの才能の有無は僕には分かりません。 だけど、僕に将棋の才能があったように、息子にもきっと何かの才能があるはず。 もっと言えば、才能がなくてもいいんです。 たとえ才能がなくても、それでも続けるのが楽しいと思えるようなことがあれば。 僕が将棋で生活できるのだって、プロになれなくても将棋が楽しいと思ってくれる将棋ファンの人たちのおかげです。 だから、才能を与えてくれた将棋の神様や、僕の才能を信じて応援してくれるファンの皆さんに、失礼な将棋を見せるわけにはいきません。 努力すればと綺麗事の根性論で人を操ろうとする人間より、合理的に現実を突きつける人間の方が私は誠実で優しいと思う。
相手の視点に沿って話すのも才能だし相手の怒りに共感するのも才能。 僕は気が狂うほど人を憎んだことがあるから殺人者も放火犯も「被害を産んだやつ」ではなく「かわいそうな人」としか見れない。 多分これが才能。
教えれば誰にでもできることを目的にしているのが教育で、誰にでも出来ないのが才能。「自分だけが価値ある存在でありたい」天才は、大勢の秀才を作り上げる教育を嫌い、教育者もまた天才を否定する。才能という言葉を多用する富野由悠季は、自分と親しい人間でおいしいところ取りをしその他大勢を奴隷待遇にしていたw才能は明示されない抽象的な評価で、じぶんのさじ加減でどうにでもなるのだった。富野由悠季が学んだ日本大学芸術学部ってどんなところなんだろう みんなは自分だけが価値ある存在でありたいという願望の殻を破って冷静に物事を判断できるタイプですか?
自分にできて当たり前の事が他人ができない事を理解できない という事が多々ありますがこれのわかり易い例が『水泳』と『自転車』らしいです物心つく前後辺りに水泳や自転車を覚えると何故 泳げない 乗れない 事が理解できないそうな 泳げて当たり前の人は泳げない人を理解できない自転車に乗れて当たり前の人は乗れない人を理解できない
私も子供の頃から「お前頭悪いけど手先器用だなぁ~」と結構な人から言われて来たので、そっち方面を仕事にしました。こっちからしたら「なんで出来ないの?」って感覚でした。ただ楽しくはないんですよね…周りが苦労するような工作作業を手順やら工作方法をあまり考えずに完成させられるってだけで…ですが、年取ると感覚が鈍ったのか、若い頃のような「見えない所ででも感覚だけで工作出来る」って感覚はなくなって来ました。普通には出来るんですがね。特別な感じってのは無くなって来ました。これ、頭脳派の才能持ってる人でも同じなんですかね?普通に頭良いけども「あー特別な感じは無くなったなぁ…」みたいな…私、本当に記憶力とか頭悪いからこういうのがあって良かったと思ってます。私が思うに「なんの才能もない」って人はどこかの範囲とかを平均的に出来る才能を持っているんだと思います。目立たないだけで…ヤクザになるしかないような人はそちら方面の才能持ち。猟奇的な殺人者もそちら方面の…才能ない人なんていないんですよ。ただおっしゃる通り、生活の糧に出来るかと言うと…時代が時代なら人殺しの才能も戦争って中では生きてくるんでしょうけども。神様は残酷ですね…
不幸は不幸だと思わなければ不幸ではない。努力や才能ってのも一緒で努力したってそういう人達は並みの人の努力程度は努力じゃないんだろうと思う。もう一つ、子供に学校教育であれやれこれやれって押し付けるのは正しい事だとも思う。学校教育ってのはある意味で失敗が許される事で「やらず嫌い」や「最初の難関」を乗り越えて自分の性格や能力に合うジャンルを本人に痛感させるための物であると中年になって振り返ると思う訳である。 ただ、出来ないのを無理やりやらせるってのの、程度を見極めるって能力が無い人間が教師や親をすると・・・結構大変というか悲惨な将来が待ってるのが問題なのよね
申し訳ないけど、才能が全くない人がほとんどで、誰もが何か一つは秀でたものがあるは嘘。才能がある人は何でも上手くできるから、生まれながらに平等ではない。いっぽう、現代はまったく何をやってもダメな人が総理になって、まったく使えないマスク作って、自己満足で一生過ごせる時代。才能のない人間の黄金時代。
努力すれば報われるって語るのは「報われた」人だけなのよな。世の中成功譚はいくらでもあるけれどその逆、成功しなかった話(あえて失敗とは言うまい)は少ない。努力しても報われなかった人達はそれについて口を閉ざして語ろうとしないから。成功した、報われた人達の影に、努力して努力してそれでもどうにもならず夢破れた屍が無数に転がっている事は知っておかなきゃいけない。
今日の自分より明日の自分が強ければそれで良いという「自分基準」の努力であれば無駄な努力は存在しない。ただしそれは言い換えれば自己満足の世界で「世間」や「他人」はそうは思わない。例えばIQ80のグレーゾンに位置する人が普段テスト10点しか取れないのに頑張って25点取ったとしてそれはすごく頑張った事なんだけど、親とか特別に近しい人ならともかく社会や他人は一切評価しないしそれ以前に努力したことすら認めてはくれない。努力の大きな原動力として「他人からの賞賛や報酬」があるが、才能がない人はひたすら「認められない努力」を繰り返すしかない。その苦しみに耐えられる人はそう多くないし、逆に耐えられる故に夢にしがみつき取り返しのつかなくなる場合もある。(50歳過ぎても売れない芸人など) そういう人には誰かが「もういい、もう十分だ、お前はよくやった、だからもういい、もう休め」そう言ってあげる必要があると思う。
やってみたい気持ちがあればと言うけどそれだけだったのにいつの間にか比べてしまって、けちょんけちょんにやられる。やってみたいと言う気持ちすら潰すのが才能ってもんだよ。だから質問者さんも答えがわかってるのに何かないかと問いたくなるのよ。
たしかに、自分は中学校の時周りより少しだけ頭が良かったからお節介にも人に教えたことがあったけど、公式に代入するだけのことができない。 まず公式に代入しようという発想にいたらない。当時は幼かったから何故なのか分からず苛立っていました。しかし大人になって、自分が当たり前に出来る事ができない人がいて、自分ができない事を当たり前に出来る人がいると気づけたいい経験になったと思います。
「君には何かしら才能がある」よりも「別に才能がなくてもいいよ」と言われた方が救われる人は多いと思う。 何かの役に立たなきゃ生きる価値がないと思う人は多いけどその価値観を持ってると「役に立たない他人」や「役に立たない自分」を許せない人になってしまう
中学生でプロ棋士になった現名人の渡辺明「はっきり言います。僕は将棋の天才です」
「自分が竜王になれたのは、誰よりも努力したからだ。誰だって努力すればプロになってタイトルくらい取れる。他の人たちは、全然努力をしていない」
自分よりも弱い人たちに対して、心の中で「真面目にやらなかった人」とレッテルを貼って馬鹿にしていたんです。
だけど、息子に将棋を教えるようになって、自分の間違いに気付きました。
昔の自分に簡単にできたことが、息子は全然できないんです。
実は、子供に将棋を教えるという経験がそれまで一度もなかったので、本当に驚きました。
「え?なんでこんなことが分からないの?」って。
それでやっと理解しました。
「あぁ、自分には将棋の才能があったんだ」と。
もちろん、たくさん努力もしましたよ。
だけど、それだけではなかった。
才能があったからここまで来れたということが、ようやく分かったんです。
誰でも努力を続ければ、確実に上達していくと思います。
それは事実です。
だけど、上達スピードは人それぞれ。努力を続けてもプロになれない人もいるということに、僕は気付きました。
みんな努力していないと決め付けて馬鹿にしていた昔の自分は、我ながら最低の人間です。
今、息子にはサッカーをやらせています。
サッカーの才能の有無は僕には分かりません。
だけど、僕に将棋の才能があったように、息子にもきっと何かの才能があるはず。
もっと言えば、才能がなくてもいいんです。
たとえ才能がなくても、それでも続けるのが楽しいと思えるようなことがあれば。
僕が将棋で生活できるのだって、プロになれなくても将棋が楽しいと思ってくれる将棋ファンの人たちのおかげです。
だから、才能を与えてくれた将棋の神様や、僕の才能を信じて応援してくれるファンの皆さんに、失礼な将棋を見せるわけにはいきません。
努力すればと綺麗事の根性論で人を操ろうとする人間より、合理的に現実を突きつける人間の方が私は誠実で優しいと思う。
うん、努力やん。才能って存在しないやん。まあ育成環境はそれぞれ違うけどね。
としおさん、逆上がりできて凄い。私できない。
相手の視点に沿って話すのも才能だし
相手の怒りに共感するのも才能。
僕は気が狂うほど人を憎んだことがあるから
殺人者も放火犯も「被害を産んだやつ」ではなく「かわいそうな人」としか見れない。
多分これが才能。
俺も考えてたことあるから気持ちわかるなあ。
履歴書やエントリーシートの特技、趣味に書くことないんだよ。
良いじゃんみんな努力とか出来て
学習障害とかIQが低いとかじゃないんだから
才能という言葉が好きな人間は、単にナルシストであって社会の害になることはあっても有益になることは絶対にないです
教えれば誰にでもできることを目的にしているのが教育で、誰にでも出来ないのが才能。「自分だけが価値ある存在でありたい」天才は、大勢の秀才を作り上げる教育を嫌い、教育者もまた天才を否定する。才能という言葉を多用する富野由悠季は、自分と親しい人間でおいしいところ取りをしその他大勢を奴隷待遇にしていたw
才能は明示されない抽象的な評価で、じぶんのさじ加減でどうにでもなるのだった。
富野由悠季が学んだ日本大学芸術学部ってどんなところなんだろう
みんなは自分だけが価値ある存在でありたいという願望の殻を破って冷静に物事を判断できるタイプですか?
才能と能力はちがう
高校の頃、お前スネ毛凄いなって言われたことあるんですけど、スネ毛が凄いって才能なんでしょうか。
自分にできて当たり前の事が
他人ができない事を理解できない
という事が多々ありますがこれのわかり易い例が
『水泳』と『自転車』
らしいです
物心つく前後辺りに水泳や自転車を覚えると
何故 泳げない 乗れない 事が理解できないそうな
泳げて当たり前の人は泳げない人を理解できない
自転車に乗れて当たり前の人は乗れない人を理解できない
私も子供の頃から「お前頭悪いけど手先器用だなぁ~」と結構な人から言われて来たので、そっち方面を仕事にしました。こっちからしたら「なんで出来ないの?」って感覚でした。
ただ楽しくはないんですよね…周りが苦労するような工作作業を手順やら工作方法をあまり考えずに完成させられるってだけで…
ですが、年取ると感覚が鈍ったのか、若い頃のような「見えない所ででも感覚だけで工作出来る」って感覚はなくなって来ました。普通には出来るんですがね。特別な感じってのは無くなって来ました。
これ、頭脳派の才能持ってる人でも同じなんですかね?普通に頭良いけども「あー特別な感じは無くなったなぁ…」みたいな…
私、本当に記憶力とか頭悪いからこういうのがあって良かったと思ってます。私が思うに「なんの才能もない」って人はどこかの範囲とかを平均的に出来る才能を持っているんだと思います。目立たないだけで…
ヤクザになるしかないような人はそちら方面の才能持ち。猟奇的な殺人者もそちら方面の…才能ない人なんていないんですよ。
ただおっしゃる通り、生活の糧に出来るかと言うと…時代が時代なら人殺しの才能も戦争って中では生きてくるんでしょうけども。
神様は残酷ですね…
不幸は不幸だと思わなければ不幸ではない。努力や才能ってのも一緒で努力したってそういう人達は並みの人の努力程度は努力じゃないんだろうと思う。
もう一つ、子供に学校教育であれやれこれやれって押し付けるのは正しい事だとも思う。学校教育ってのはある意味で失敗が許される事で「やらず嫌い」や「最初の難関」を乗り越えて自分の性格や能力に合うジャンルを本人に痛感させるための物であると中年になって振り返ると思う訳である。
ただ、出来ないのを無理やりやらせるってのの、程度を見極めるって能力が無い人間が教師や親をすると・・・結構大変というか悲惨な将来が待ってるのが問題なのよね
うーん
友人からよくすぐ行動に移してすごいとよく言われるけどこれは才能なんだろうか
申し訳ないけど、才能が全くない人がほとんどで、誰もが何か一つは秀でたものがあるは嘘。
才能がある人は何でも上手くできるから、生まれながらに平等ではない。
いっぽう、現代はまったく何をやってもダメな人が総理になって、まったく使えないマスク作って、自己満足で一生過ごせる時代。
才能のない人間の黄金時代。
努力できるのも才能だからな!
スポーツタレントテストの功罪…
才能って言葉で全てのことを言えるからちょっとせこいよな
私は何の才能もない無能のゴミです!
夢も希望もないな笑笑
俺もはや逆上がりも出来なかったなぁ
逆上がりだけじゃなくて数学だって出来ないし、絵も描けないし、楽器も扱えない、英語も分からない、ゲームも上手くない
無いね〜、才能
私が才能無いなって思ったのが工場の二交代制
週ごとに夜と昼を交互にしながら12時間務めるのは常人じゃ体壊す
結局辞めたあと結構ガタがきてた
努力すれば報われるって語るのは「報われた」人だけなのよな。
世の中成功譚はいくらでもあるけれどその逆、成功しなかった話(あえて失敗とは言うまい)は少ない。
努力しても報われなかった人達はそれについて口を閉ざして語ろうとしないから。
成功した、報われた人達の影に、努力して努力してそれでもどうにもならず夢破れた屍が無数に転がっている事は知っておかなきゃいけない。
今日の自分より明日の自分が強ければそれで良いという「自分基準」の努力であれば無駄な努力は存在しない。
ただしそれは言い換えれば自己満足の世界で「世間」や「他人」はそうは思わない。
例えばIQ80のグレーゾンに位置する人が普段テスト10点しか取れないのに頑張って25点取ったとしてそれはすごく頑張った事なんだけど、親とか特別に近しい人ならともかく社会や他人は一切評価しないしそれ以前に努力したことすら認めてはくれない。
努力の大きな原動力として「他人からの賞賛や報酬」があるが、才能がない人はひたすら「認められない努力」を繰り返すしかない。
その苦しみに耐えられる人はそう多くないし、逆に耐えられる故に夢にしがみつき取り返しのつかなくなる場合もある。(50歳過ぎても売れない芸人など)
そういう人には誰かが「もういい、もう十分だ、お前はよくやった、だからもういい、もう休め」そう言ってあげる必要があると思う。
半分先読み半分エアプみたいなのは持ってるwwwww
やってみたい気持ちがあればと言うけど
それだけだったのにいつの間にか比べてしまって、けちょんけちょんにやられる。
やってみたいと言う気持ちすら潰すのが才能ってもんだよ。
だから質問者さんも答えがわかってるのに何かないかと問いたくなるのよ。
いや、2019年痩せすぎぃ!!!!!!
直感に優れてるタイプの私は左脳で理論的な考えを取ろうとすると足が止まって動けなくなる(比喩的に)
つまりそれが弱点なので、選択肢は直感で選べばいいのだと最近気付かされました
直感も才能なのですね
”特に頑張らなくても自然と出来る事”が才能の定義なのかなと最近思ってる
才能=生まれついての能力、能力=上達のための努力をして後天的に出来るようになったこと
たしかに、自分は中学校の時周りより少しだけ頭が良かったからお節介にも人に教えたことがあったけど、
公式に代入するだけのことができない。
まず公式に代入しようという発想にいたらない。
当時は幼かったから何故なのか分からず苛立っていました。
しかし大人になって、自分が当たり前に出来る事ができない人がいて、自分ができない事を当たり前に出来る人がいると気づけたいい経験になったと思います。
お前寝癖凄いよ、は言われたことあるね
「君には何かしら才能がある」
よりも
「別に才能がなくてもいいよ」
と言われた方が救われる人は多いと思う。
何かの役に立たなきゃ生きる価値がないと思う人は多いけど
その価値観を持ってると「役に立たない他人」や「役に立たない自分」を
許せない人になってしまう
できそうか(得意か)どうかよりも、「やってみたい!!」の気持ちのほうが案外人生で大切のように思います(^^)胸がワクワクって踊るって事は、絶対そこに何かあるからなんです。