自分はファミコンと同い年、小学校入学にスーファミ、中学入学に64と生まれた頃からテレビゲームを欠かさなかった生粋のゲーム世代。そして今もCS機大好きなゲーマー。 でも、死にたいと言ったことはない。というか、大人になるにつれてリセット癖は無くなってきた。 子どもの頃は効率房気味で最適解が好きだった。いつまでも決断できないで足踏みしていたことも多々あった。現実でも少しの挫折で嫌気がさしていたこともあった。その心の根底には「100点を取りたい」という減点方式の考えがあったんだと思う。 でも「別に100点じゃなくて良いじゃないか」と思えるようになってきてからは、この状況をどうするかという方に頭を使うようになってきた。 大当たりを引くまでリセマラするより、ありもので妥協して創意工夫で乗り越えた方が楽しいじゃないか。 死にたかったら少しでも楽しめばいいし、楽しかったら死にたいなんて思う暇はない。楽しい事って少しだけ苦しい事の先にあるし、苦しい事って後になって案外楽しかったりするもんよ?ラクな事で楽しい事はないと思う。
年食ったら、先が見えて楽しいことが減っていくものの、どうせほっといても死ぬんだから自ら死のうとはあまり思わないかもしれない。でも、若い状態で色んな情報から先が見えてしまうと、これはきついかもしれない。未来予測が立たないからこそ、不安はあっても良いことあるかもと思えるのであって、予想ついちゃうとね…。自分ができそうな狭い狭い幅を見つける。出来ることはコレくらいかな。
興味深く拝聴しました。もうひとつ、50代より上になると死にたいという事自体が罪だという意識が有ると思います。「死にたい」などと軽々しく言うと戦争や飢餓によって行きたくても生きられない人が身近に居た親や先生の世代に怒られたので。あ、死にたいってのは人間にとって絶対いずれかなう願いですが1回しか出来ないので、楽しみは後に取っておいてそれまではせいぜいやりたいように生きるか…。と思えば気楽になりますよ。
死にたい、と独白することで、死ねない理由が浮き彫りになる。死が最終欲求なのかどうかを自問自答する感じ。そもそも不確定な未来と天秤にかけるべきものなのかどうかを深く考える余裕が無い人だっている。 自分以外に死にたいとこぼす人の中には、まれに「他問他答」型もいるので、「じゃぁ何で昨日死んでないの?」は怖くて言えない。
「死」って言葉が軽くなってる証拠やねつまらない、暇だな〜、刺激がない、て感じてるだけでも死にたいって言葉で埋めてると感じますね私は経験上、救われた命で今を生きてると思ってますが、無駄に長生きしたくないな~とっとと逝って、若者に道を譲りたい日本をもっと若者が住みやすい国にして欲しいそこに伝統や文化を少しだけ守ってくれればそれで良い
ぶっちゃけ自己責任論の弊害だと思う シニたいって言っちゃう人はやり場のない気持ちを自分にぶつけてるんだよな それを見ててイライラする人ってのはシニタイさんを見下して馬鹿にしているからイライラしているのであって、そのイライラは己の問題であると自覚していない
リセマラの前提となる最適構築以外は全部不利なゲームシステムが受けて流行っている、というのが怖い。ゲームシステムとしては環境をコロコロ変えて最適が常に変動するようなシステムなんて簡単に作れるのに。ゲームというやるかやらないかを選べる世界ですら価値観が固定されて順位付けされる世界を選ぶなんて、そりゃ回り道ばっかりの人生はしんどいだろう。人生では回り道はいくらでも糧にできるのに
50代以上だと親とかその上の世代から、戦争とかで無理やり人生を終わらされた、生きたいのに生きられなかった彼等の肉親や友人の話を聞かされたりして、それが影響してるってのは?個人的にはぜいたくな悩みというか、楽園実験でおかしくなった実験動物を思い出したりしたかな。
周りと比較して悲観するとか無いものねだりは生き物がよりよく進化しようとする本能的な?生まれてくる時リセマラ出来るなら当然やりまくるし「今回はスペック的に駄目だっただけドンマイ❤️」と自分に優しく気楽に考えて次の輪廻に期待。
Wizardryプレイヤーならリセット前提ですから50代60代でもその感覚ってあると思ってますwで、少なくとも日本に生まれたってだけで当たりガチャ(金)を既に引いてると思いますね(天国に住んでるのにっていうのは同意します)。それでも大当たり(ホロ)を引かないと価値がない、という思い込みがそうさせるのかな? と。肩に止まった青い鳥に気づくかどうかが人の資質だと思うのです。これから先今ある幸せが消えることを恐れるあまり、今の幸せを楽しめないのって不幸じゃない? と。
生きるって多かれ少なかれつらいもので、それに対して今やってること、やりたいと思ってることを達成したことによる満足があることで今を生き続けたいと思えるのではないでしょうか?現在は、そのバランスが崩れてきているのではないでしょうか?今がいくら良くても、将来に達成感がないと今後生きていく意味が感じられないのではないか
岡田さん、だいぶ認識、近くなった。アイデンティティがしっかり確立されていない、またはそれが保てない環境下なのです。地盤ゆるゆるの状態。だからやっぱりそう言うOSがインストールされてるって言うのがしっくりくる。死にたいも別にそんなカジュアルで言ってるわけではないと思う。人によるかもしれないけどね。ふとした時に線路に入っちゃうとか、飛び降りちゃうとか、自殺するつもりはなくても、ふとそう言う気になって自殺しちゃう人も結構いるんじゃないかな。
40歳男性です。岡田さんも言ってましたが、歳を重ねることで人生が楽しくなることもあります。私が人生でメンタル的に一番辛かったのは社会人一年目でした。でも周りはかなり気を遣ってくれていたと思います。もちろん例外はいましたがw社会に出るのは今までの環境とかなり変わるので辛いのです。「死にたい」と言いながら自分のメンタルを守り、自殺願望にまでならないよう適度にストレス発散をしていたのを思い出しました(^_^;)
還暦の自分は脳や身体が衰えて、自由に考えたり行動できなくなったら死にたい。即ち生命を「考えて行動するための道具」と考え「それが出来ないなら無意味」と考えている様だ。故に身体が衰えたらサイボーグ化はウェルカム。人間の身体に未練はあるが、自由に行動できるなら「ジェイムスン教授」型でも可。痴呆が解決するなら何十年も活動期間が伸びそうでウェルカム。その辺、若い人はどう思うのだろうか聞いてみたい気がする。身体が不自由になっても「生きていたくもないが死にたくもない。寝たきりで過ごすよ」と思うのか、或は「行動できなくなったら流石に死にたい。サイボーグ化で避けられるならウェルカム」と思うのか。
別の世界で生きたい
自分はファミコンと同い年、小学校入学にスーファミ、中学入学に64と生まれた頃からテレビゲームを欠かさなかった生粋のゲーム世代。そして今もCS機大好きなゲーマー。
でも、死にたいと言ったことはない。
というか、大人になるにつれてリセット癖は無くなってきた。
子どもの頃は効率房気味で最適解が好きだった。いつまでも決断できないで足踏みしていたことも多々あった。現実でも少しの挫折で嫌気がさしていたこともあった。
その心の根底には「100点を取りたい」という減点方式の考えがあったんだと思う。
でも「別に100点じゃなくて良いじゃないか」と思えるようになってきてからは、この状況をどうするかという方に頭を使うようになってきた。
大当たりを引くまでリセマラするより、ありもので妥協して創意工夫で乗り越えた方が楽しいじゃないか。
死にたかったら少しでも楽しめばいいし、楽しかったら死にたいなんて思う暇はない。
楽しい事って少しだけ苦しい事の先にあるし、苦しい事って後になって案外楽しかったりするもんよ?
ラクな事で楽しい事はないと思う。
年食ったら、先が見えて楽しいことが減っていくものの、どうせほっといても死ぬんだから自ら死のうとはあまり思わないかもしれない。でも、若い状態で色んな情報から先が見えてしまうと、これはきついかもしれない。未来予測が立たないからこそ、不安はあっても良いことあるかもと思えるのであって、予想ついちゃうとね…。自分ができそうな狭い狭い幅を見つける。出来ることはコレくらいかな。
誰かの将来の夢「大金持ちになりたい」希死念慮坊「死にたいw」要は努力しないから死ねないんだよwwwwwwwwwwww
ただの不況だね。
興味深く拝聴しました。もうひとつ、50代より上になると死にたいという事自体が罪だという意識が有ると思います。「死にたい」などと軽々しく言うと戦争や飢餓によって行きたくても生きられない人が身近に居た親や先生の世代に怒られたので。
あ、死にたいってのは人間にとって絶対いずれかなう願いですが1回しか出来ないので、楽しみは後に取っておいてそれまではせいぜいやりたいように生きるか…。と思えば気楽になりますよ。
アンデシュ ハンセンも著書で指摘してる通り先進国の10代女性の7
割がSNS依存症ですからね
セレブの私生活と自分比較してどんどん自己肯定感が低くなってる
死にたい、と独白することで、死ねない理由が浮き彫りになる。
死が最終欲求なのかどうかを自問自答する感じ。
そもそも不確定な未来と天秤にかけるべきものなのかどうかを深く考える余裕が無い人だっている。
自分以外に死にたいとこぼす人の中には、まれに「他問他答」型もいるので、「じゃぁ何で昨日死んでないの?」は怖くて言えない。
「死」って言葉が軽くなってる証拠やね
つまらない、暇だな〜、刺激がない、て感じてるだけでも死にたいって言葉で埋めてると感じますね
私は経験上、救われた命で今を生きてると思ってますが、無駄に長生きしたくないな~
とっとと逝って、若者に道を譲りたい
日本をもっと若者が住みやすい国にして欲しい
そこに伝統や文化を少しだけ守ってくれればそれで良い
ぶっちゃけ自己責任論の弊害だと思う シニたいって言っちゃう人はやり場のない気持ちを自分にぶつけてるんだよな それを見ててイライラする人ってのはシニタイさんを見下して馬鹿にしているからイライラしているのであって、そのイライラは己の問題であると自覚していない
リセマラの前提となる最適構築以外は全部不利なゲームシステムが受けて流行っている、というのが怖い。ゲームシステムとしては環境をコロコロ変えて最適が常に変動するようなシステムなんて簡単に作れるのに。ゲームというやるかやらないかを選べる世界ですら価値観が固定されて順位付けされる世界を選ぶなんて、そりゃ回り道ばっかりの人生はしんどいだろう。人生では回り道はいくらでも糧にできるのに
ゼロから始めたい。今日からまっさらみたいのは好きです。
結構、小さく実行してる。
しにたい、には続きがあるのかも。
しにたい、そして生まれ変わって人生をやり直したい。
しかし、生まれ変わるというシステムは存在しない可能性が高いから、しなない。
人生やめたいと思うに至る”過程“の方が問題。
つまり…容姿が気に入らない…性別が気にくわない…家ガチャ失敗でド貧乏だから…
必ず何かしらの理由があるはず。
そこの所を出さないとねー
未来に希望が持てないからでしょ
全然死にたくないけど、いきなり死んだらそれはそれでそんなに後悔ないんだよなぁ
50代以上だと親とかその上の世代から、戦争とかで無理やり人生を終わらされた、生きたいのに生きられなかった彼等の肉親や友人の話を聞かされたりして、それが影響してるってのは?
個人的にはぜいたくな悩みというか、楽園実験でおかしくなった実験動物を思い出したりしたかな。
岡田さん自体が生き汚いというか、活力に溢れた人間だから分かんねぇと思うな。
死にたいは過去の否定で生きたくないは未来の否定。この違いだと思います。生きたくないし死にたい人もいますがただ単に生きたくない人はこれからの未来にぼんやりとした不安を抱いてるのだと思います
何をしたいかはその人の自由だけど、私に直接伝えないでほしいね。
そんなにしにたいなら好きにすればって言って本当にしなれたら下手したらこっちが捕まるし
00年代前後から死にたいからネットに繋がり集団自殺が増えた事に触れられないのが怖い所です。
家庭と社会から自己責任だと見捨てたロスジェネ世代の問題の本質。
岡田の年代は辿りついた天国
天国しか知らない人はRPGクリア後の虚無感の中にいて失うことに怯えるしかない
無痛主義 便利な言葉沢山あるな
人生、何一つ面白い事が無くなったら
死んでも良いと思ってる
人生マスターベーション
自己満足
他人に如何思われても良いわ
自分以外は
他人
rpgほとんどやらずにシミュレーションゲームばかりやってて良かったわ。
周りと比較して悲観するとか無いものねだりは生き物がよりよく進化しようとする本能的な?
生まれてくる時リセマラ出来るなら当然やりまくるし
「今回はスペック的に駄目だっただけドンマイ❤️」と自分に優しく気楽に考えて次の輪廻に期待。
Wizardryプレイヤーならリセット前提ですから50代60代でもその感覚ってあると思ってますw
で、少なくとも日本に生まれたってだけで当たりガチャ(金)を既に引いてると思いますね(天国に住んでるのにっていうのは同意します)。
それでも大当たり(ホロ)を引かないと価値がない、という思い込みがそうさせるのかな? と。
肩に止まった青い鳥に気づくかどうかが人の資質だと思うのです。
これから先今ある幸せが消えることを恐れるあまり、今の幸せを楽しめないのって不幸じゃない? と。
つまり人生くそげーってやつですね。
司法は暴力に屈した
しにたいについては生れたくなかったってのもあるのが抜けてるし40歳じゃなくて50歳以下なんじゃないの
めんどくせえ、、知らねえよとしか言いようがない。何かして欲しいとも思ってないだろうけど。
人間を少しお休みしたい。
生きるって多かれ少なかれつらいもので、
それに対して今やってること、やりたいと思ってることを達成したことによる満足があることで
今を生き続けたいと思えるのではないでしょうか?
現在は、そのバランスが崩れてきているのではないでしょうか?
今がいくら良くても、将来に達成感がないと今後生きていく意味が感じられないのではないか
岡田さん、だいぶ認識、近くなった。アイデンティティがしっかり確立されていない、またはそれが保てない環境下なのです。地盤ゆるゆるの状態。だからやっぱりそう言うOSがインストールされてるって言うのがしっくりくる。死にたいも別にそんなカジュアルで言ってるわけではないと思う。人によるかもしれないけどね。ふとした時に線路に入っちゃうとか、飛び降りちゃうとか、自殺するつもりはなくても、ふとそう言う気になって自殺しちゃう人も結構いるんじゃないかな。
根性がねえですまされる
転生系物語が流行りなのは、これが根底にあるんだろうな
現在の環境をリセットしたらうまく行くとかいう思想というか幻想
ダメおやじの後半の成り上がり編なんかは、明確に作品化したその嚆矢かもしれん
自分50だけど、心がって意味じゃないの。
42そう(心が)、42たい(頑張りたくねぇ)。
ブラックジョークみたいなもんだから軽く言える。
40歳男性です。岡田さんも言ってましたが、歳を重ねることで人生が楽しくなることもあります。
私が人生でメンタル的に一番辛かったのは社会人一年目でした。
でも周りはかなり気を遣ってくれていたと思います。もちろん例外はいましたがw
社会に出るのは今までの環境とかなり変わるので辛いのです。
「死にたい」と言いながら自分のメンタルを守り、自殺願望にまでならないよう適度にストレス発散をしていたのを思い出しました(^_^;)
還暦の自分は脳や身体が衰えて、自由に考えたり行動できなくなったら死にたい。
即ち生命を「考えて行動するための道具」と考え「それが出来ないなら無意味」と考えている様だ。故に身体が衰えたらサイボーグ化はウェルカム。
人間の身体に未練はあるが、自由に行動できるなら「ジェイムスン教授」型でも可。痴呆が解決するなら何十年も活動期間が伸びそうでウェルカム。
その辺、若い人はどう思うのだろうか聞いてみたい気がする。
身体が不自由になっても「生きていたくもないが死にたくもない。寝たきりで過ごすよ」と思うのか、
或は「行動できなくなったら流石に死にたい。サイボーグ化で避けられるならウェルカム」と思うのか。