この世に生命が誕生しそれぞれの生物が生き延びるために現代まで繰り返してきた食物繊維を今更許せないって…そんな余計なことを考えるのは無駄に知能が発達した人間だけだよ生物である以上自分が生き延び続けることが最優先でありそのための手段として他者の命を食うのはごくごく普通のことだそれが許せないのなら食わずに餓死すればいいだけのこと
この手の話を聞く際、生きるために他の命を奪う行為は命あるものが平等に背負っている生き物の罪ですが、 こと独りよがりの儀式を生まれも育ちも違う他者に強要する行為は人の罪だと思っています。 幸い質問者さんはまだお若いし、そこまでこじらせてはいないようで安心しました。
やはり、それは選べるから言える事です。恵まれた環境にあるからでしょう。 選択肢がなければ、どうするでしょうか。それと、感謝しかないでしょう。生きている事を考えてみてほしいですね。私達は、生命の一部です。
①食肉は悪いことではない。たんにエネルギーを肉によって得ているだけ。もっと言えば「殺し」自体が本質的には悪いことではない。一般的に殺人が罪になるのは別の要件の違いによるのであって、本質的な悪だからではない。②だから食肉を正当化する必要も無いし、命に感謝する必要も無い。肉を食べる際にも罪を意識する必要など一切無い。③「いただきます」は自身に食を提供してくれた(声の届くところにいる)人への感謝であって、聞こえるハズもない遠くの人へ挨拶するのは身勝手な自己満足
10代なら世の中の色んな矛盾に突き当たるよね。相談者さんには「いただきますって言っても結局56して食べてるじゃん、偽善者」みたいに見えるんじゃないかな~~~いただきますは、おはようございますと同じで絶対言わないといけないわけじゃないけどマナーだよね。出された食事を残さず美味しく食べるだけでいいとおもうよ。年齢重ねて社会経験積むうちに自分で答えにたどりつく疑問だと思います。
ストップ!の件共感でも、チクマさんのように若い頃は色々考えてしまうよね私も色々な本を読んだ「まだ、肉を食べているのですか?」みたいなタイトルの本とか… 今現在は、ペスカタリアンならなれるかなぁ?とか考えつつも、未だにお肉を美味しくいただいております。と殺に関わる人には感謝ですね…自分で鶏をシメろと言われてもできるかわかりません…
とりあえずこうしておこう、と考えないようにする。ただ考えないようにするって難しいんで、儀式なんですよね。単純作業するとモヤモヤってすぐ消えるんですよ。何もしないでモヤモヤ消すのってすごく難しいです、結局何かしているほうが早いです。たまたま何も考えないのが出来た人が、岡田さんみたいに「ただ考えない」とかするんですね。私も一応は「ただ考えない」タイプですね。なぜ考えなくなったのか、珍しく覚えてます小学校2年の時に感じた事なんですけど。考えるのが無駄な生活と、考えてもわからないという2重の問題から、考えないのを選びました。これも儀式でしょうね。忘れるための。20代前半まで考えないで生きましたよ。「ただ考えない」ってのはよほど頭悪いのか(私がそうですがw)、考えないほうが良いと思ったときですね(私がそうですが)。 考えて生きてしまった普通の正常人は、考えてしまうので、矛盾を解消するために忘れようとします。そのときに儀式が無ければいけない。何か単純作業をしないと消せないんですね。もともと頭悪い私のような人は、そんなことせずとも頭止められたんですねw岡田さんはその辺の自由が利くから、ただ考えないのも可能だったのかもしれません。モノの記憶法がたぶん、学校でやったような方法とは違うと思いますので。学校と違う方法でやる方が、後で思考の自由が利くんですね。 思考の自由が利かない、学校教育を守る人は頭の自由が利かない。どんなに簡単な言葉も思い出すのに苦労するでしょ。覚え方が違うんですね。忘れないように努力しながら、心の奥底を掘り下げると、自分で自分の心の傷をえぐります。「掘り下げていくと」と言っていたように、心の奥を見つめすぎるのって良くないんですね。何があるのか知る程度にして、あまり自分を攻撃するようにいじらないほうがいいです。心の奥を見つめるとかえって傷つくかもしれない、ということを知ってからのほうが良いです。なんの覚悟もなく心の奥を見つめると「過去の亡霊」とか「悪霊」といって、心の闇を魔物に仕立て上げて、怖がるだけになっちゃうんですね。それで心の闇を解消したケースは知りません。 苦しいことはあるわけないもーん、知らないモーンといっていても忘れられていません。そこで儀式するわけですね。youtubeで話の流れ、区切りを誰もがはっきりと設定していて、とてもわかりやすく、話しが変わることを示します。音楽を鳴らしたりして。そういう単純な区切りをつけて、これまでのことはとりあえず忘れていいです、次に移りますといっています。テレビなどお話作る人は必ずやります。芸能界はこれが過剰です。話しの展開で区切りがあることを、絶対に示します。こういうわかりやすい区切りをつけて、過去のことを蒸し返さないんですね。暗い、重い話は岡田さんが大笑いするみたいに、ジョークにしたり、軽くして話すもんです。 儀式なしで矛盾を解消するには、哲学みたいに必要以上に難しいことを言うしかありません。それでも完全解消はしないですね。そう思うと、人は心の矛盾と付き合うしかないんですね。それを知ったうえで、今後困ったときは工夫して考えましょう。中国古典、西洋古典のような人生訓を考えたような立派な人と似たようなことが言えますよ。 比較的やりやすいのは、心はどういう仕組みで、どう動いて、人はどう考えることが多いとか場合によって心理状態を簡単に言えるようになってください。日本だけこれやってませんので、これやると本質的な問題を考えやすくなります。長くなりましたが、こういうことは一生付きまといますので、早く気付いたほうが良い。わからなくてもいいので、知っているだけでも構いません。もともと、人生訓とか人間の本質のような難しいことは、子供の時から言葉だけに親しんでいました。本を繰り返し読み、わからないなりに知りました。本を読みながら生活し、人生経験を積んでから解釈していたのです。10代でも人生訓、哲学は知っていいのです。なぜなら、ある程度考えられる年齢になったら、何才だろうと本質的な疑問を感じるからです。
とりあえずこうしておこう、と考えないようにする。ただ考えないようにするって難しいんで、儀式なんですよね。単純作業するとモヤモヤってすぐ消えるんですよ。何もしないでモヤモヤ消すのってすごく難しいです、結局何かしているほうが早いです。たまたま何も考えないのが出来た人が、岡田さんみたいに「ただ考えない」とかするんですね。私も一応は「ただ考えない」タイプですね。なぜ考えなくなったのか、珍しく覚えてます小学校2年の時に感じた事なんですけど。考えるのが無駄な生活と、考えてもわからないという2重の問題から、考えないのを選びました。これも儀式でしょうね。忘れるための。20代前半まで考えないで生きましたよ。「ただ考えない」ってのはよほど頭悪いのか(私がそうですがw)、考えないほうが良いと思ったときですね(私がそうですが)。 考えて生きてしまった普通の正常人は、考えてしまうので、矛盾を解消するために忘れようとします。そのときに儀式が無ければいけない。何か単純作業をしないと消せないんですね。もともと頭悪い私のような人は、そんなことせずとも頭止められたんですねw岡田さんはその辺の自由が利くから、ただ考えないのも可能だったのかもしれません。モノの記憶法がたぶん、学校でやったような方法とは違うと思いますので。学校と違う方法でやる方が、後で思考の自由が利くんですね。 思考の自由が利かない、学校教育を守る人は頭の自由が利かない。どんなに簡単な言葉も思い出すのに苦労するでしょ。覚え方が違うんですね。忘れないように努力しながら、心の奥底を掘り下げると、自分で自分の心の傷をえぐります。「掘り下げていくと」と言っていたように、心の奥を見つめすぎるのって良くないんですね。何があるのか知る程度にして、あまり自分を攻撃するようにいじらないほうがいいです。心の奥を見つめるとかえって傷つくかもしれない、ということを知ってからのほうが良いです。なんの覚悟もなく心の奥を見つめると「過去の亡霊」とか「悪霊」といって、心の闇を魔物に仕立て上げて、怖がるだけになっちゃうんですね。それで心の闇を解消したケースは知りません。 苦しいことはあるわけないもーん、知らないモーンといっていても忘れられていません。そこで儀式するわけですね。youtubeで話の流れ、区切りを誰もがはっきりと設定していて、とてもわかりやすく、話しが変わることを示します。音楽を鳴らしたりして。そういう単純な区切りをつけて、これまでのことはとりあえず忘れていいです、次に移りますといっています。テレビなどお話作る人は必ずやります。芸能界はこれが過剰です。話しの展開で区切りがあることを、絶対に示します。こういうわかりやすい区切りをつけて、過去のことを蒸し返さないんですね。暗い、重い話は岡田さんが大笑いするみたいに、ジョークにしたり、軽くして話すもんです。 儀式なしで矛盾を解消するには、哲学みたいに必要以上に難しいことを言うしかありません。それでも完全解消はしないですね。そう思うと、人は心の矛盾と付き合うしかないんですね。それを知ったうえで、今後困ったときは工夫して考えましょう。中国古典、西洋古典のような人生訓を考えたような立派な人と似たようなことが言えますよ。 比較的やりやすいのは、心はどういう仕組みで、どう動いて、人はどう考えることが多いとか場合によって心理状態を簡単に言えるようになってください。日本だけこれやってませんので、これやると本質的な問題を考えやすくなります。長くなりましたが、こういうことは一生付きまといますので、早く気付いたほうが良い。わからなくてもいいので、知っているだけでも構いません。もともと、人生訓とか人間の本質のような難しいことは、子供の時から言葉だけに親しんでいました。本を繰り返し読み、わからないなりに知りました。本を読みながら生活し、人生経験を積んでから解釈していたのです。10代でも人生訓、哲学は知っていいのです。なぜなら、ある程度考えられる年齢になったら、何才だろうと本質的な疑問を感じるからです。
自分は今も肉を食うことに少し抵抗があるのだ。フォアグラや豚が殺される、いわば屠殺が自分にとって嫌に感じるぜ。ま、自分に置き換えて考えたらかなり理不尽な生き方に見えたからだな。自分が命を大事にできる時が来たら、植物だけでも栄養素を満たせるような食生活を世界に広げていきたいぜ。もう、働いていただいている農家等にしかいただきますやご馳走様でしたを言わなくていいように、色々考えて行きたいぜ。
自分が食われる側でもあるって自覚がないからなんか傲慢に怒りもわくのかな。食べるもの食べないものを善悪の感情で分けるのもくだらないと思う。好き嫌い、美味い不味い、で良いと思うよ、食べさせてもらい生かせてもらってるんだから。自分が死ぬ時は順番が回ってきたんだと思うようにしてる。
これって両親や周りの大人達からの躾&教育で受け取り方が変わると思うけど、世界的にもある程度教養のある家庭で一定の人数で食べる時って大抵何かしらの感謝をしてから食べますね・・・無言で食べ始めるのは経験したことが無いかな・・・投稿者のコレは食べるコレは食べないってまぁ早い話ただの贅沢でワガママな話だと思いますけどね・・・昔は『食べられない人も居るのよ!』って怒られましたなぁw
野生動物も生きる為に、自分より弱い生き物を捕食しているわけで。生きる為に肉を食うというのは、自然な行為なんですよね。肉を食わないヴィーガンなんかは、自分たちを高貴な人間に見せたくて、そういうポーズをしているんだと、私は感じています。
矛盾に思い至ったら、突き詰めれば自己否定に至ると分かるわけで、儀式以前に根本的に意味のない論理だって気づくでしょう。流転以外にルールのない世界を、人間本位のルールで自縛して、勝手に苦しんでるだけだって。
この理屈であれば、野菜や果物といった植物にも同じ感想を持たなくてはいけない。
動物が生きているなら、植物だって生きている。
(最近の研究で、植物にも精神のようなものが宿っているという説もある。)
そろそろ法律で1ヶ月に食べて良い肉の量を規制すべきだと思う
殺人と同じ
食肉になるために産まれてきた動物ですから、それを解体して食べる事に罪の意識など全然ありませんね。
自転車に乗った人に対して重くて可哀想だろ!と言ってるのと同じ
この世に生命が誕生しそれぞれの生物が生き延びるために現代まで繰り返してきた食物繊維を今更許せないって…
そんな余計なことを考えるのは無駄に知能が発達した人間だけだよ
生物である以上自分が生き延び続けることが最優先でありそのための手段として他者の命を食うのはごくごく普通のことだ
それが許せないのなら食わずに餓死すればいいだけのこと
いただきますは、お命頂戴いたします。
命を頂いた分、それは生命維持に必要な栄養として蓄える。相手への敬意に近いよね。いただきますは融通がきくから、あらゆるモノに対して敬意をはらうことができるね。
原始の時代は人間も自然の中で他の生き物に食われるかもしれないという、ある意味フェアな状態だったけど、
現代は動物に食われる心配がほぼほぼないから、どこかアンフェアに感じてしまうんやろな
でもその美味しい肉が食べたいんでしょうって思えばとくに罪悪感で苦しむこともないw
タイトルが 悪 だろ
チクマさん、怖いよ
いただきますとごちそうさまは人に作ってもらったときにしか言わないな
あくまで作ってくれた人への感謝としてにしか感じていない
動物を殺すことがなぜ悪なの?それは自然の摂理だし「食う食われる」で進化してきたのが俺らじゃん。筋通したいなら餓死するしかないよ
生き物を殺さずに生きるってのは人間が神様になろうとする愚かな行為
そんな事はさっさと諦めて人間が出来る範囲で生き物たちとの関係を考えた方が良いよ。
その人はビーガンなんですか?
トリコ全否定笑う
この手の話を聞く際、生きるために他の命を奪う行為は命あるものが平等に背負っている生き物の罪ですが、
こと独りよがりの儀式を生まれも育ちも違う他者に強要する行為は人の罪だと思っています。
幸い質問者さんはまだお若いし、そこまでこじらせてはいないようで安心しました。
岡田さんは、本当に凄いと再確認しました。矛盾があるのが当たり前と言う理解と、そこに生じる葛藤をいかに平和的に解決するか。犠牲は必ず出るならどこに犠牲を払わせるのが最適か、綺麗事なしの考えがもう凄い。
やはり、それは選べるから言える事です。恵まれた環境にあるからでしょう。 選択肢がなければ、どうするでしょうか。それと、感謝しかないでしょう。生きている事を考えてみてほしいですね。私達は、生命の一部です。
「いただきます」を言っている=感謝をしている ではないし、そもそも「(絶対に)感謝をすべき」というわけでもない
今日から「いただきます。」を禁止する。(以下略
①食肉は悪いことではない。たんにエネルギーを肉によって得ているだけ。もっと言えば「殺し」自体が本質的には悪いことではない。一般的に殺人が罪になるのは別の要件の違いによるのであって、本質的な悪だからではない。
②だから食肉を正当化する必要も無いし、命に感謝する必要も無い。肉を食べる際にも罪を意識する必要など一切無い。
③「いただきます」は自身に食を提供してくれた(声の届くところにいる)人への感謝であって、聞こえるハズもない遠くの人へ挨拶するのは身勝手な自己満足
「人間は生きてるだけで恥ずかしい」という所さんの名言を思い出しました。
切り抜きのサムネとタイトルで釣るのやめませんか?
そのうち本人に訴えられますよ
10代なら世の中の色んな矛盾に突き当たるよね。相談者さんには
「いただきますって言っても結局56して食べてるじゃん、偽善者」みたいに見えるんじゃないかな~~~
いただきますは、おはようございますと同じで絶対言わないといけないわけじゃないけどマナーだよね。出された食事を残さず美味しく食べるだけでいいとおもうよ。年齢重ねて社会経験積むうちに自分で答えにたどりつく疑問だと思います。
ストップ!の件共感
でも、チクマさんのように若い頃は色々考えてしまうよね
私も色々な本を読んだ
「まだ、肉を食べているのですか?」みたいなタイトルの本とか…
今現在は、ペスカタリアンならなれるかなぁ?とか考えつつも、
未だにお肉を美味しくいただいております。
と殺に関わる人には感謝ですね…
自分で鶏をシメろと言われてもできるかわかりません…
とりあえずこうしておこう、と考えないようにする。
ただ考えないようにするって難しいんで、儀式なんですよね。
単純作業するとモヤモヤってすぐ消えるんですよ。
何もしないでモヤモヤ消すのってすごく難しいです、結局何かしているほうが早いです。
たまたま何も考えないのが出来た人が、岡田さんみたいに「ただ考えない」とかするんですね。
私も一応は「ただ考えない」タイプですね。なぜ考えなくなったのか、珍しく覚えてます小学校2年の時に感じた事なんですけど。考えるのが無駄な生活と、考えてもわからないという2重の問題から、考えないのを選びました。これも儀式でしょうね。忘れるための。20代前半まで考えないで生きましたよ。
「ただ考えない」ってのはよほど頭悪いのか(私がそうですがw)、考えないほうが良いと思ったときですね(私がそうですが)。
考えて生きてしまった普通の正常人は、考えてしまうので、矛盾を解消するために忘れようとします。そのときに儀式が無ければいけない。何か単純作業をしないと消せないんですね。
もともと頭悪い私のような人は、そんなことせずとも頭止められたんですねw
岡田さんはその辺の自由が利くから、ただ考えないのも可能だったのかもしれません。
モノの記憶法がたぶん、学校でやったような方法とは違うと思いますので。
学校と違う方法でやる方が、後で思考の自由が利くんですね。
思考の自由が利かない、学校教育を守る人は頭の自由が利かない。どんなに簡単な言葉も思い出すのに苦労するでしょ。覚え方が違うんですね。
忘れないように努力しながら、心の奥底を掘り下げると、自分で自分の心の傷をえぐります。
「掘り下げていくと」と言っていたように、心の奥を見つめすぎるのって良くないんですね。
何があるのか知る程度にして、あまり自分を攻撃するようにいじらないほうがいいです。
心の奥を見つめるとかえって傷つくかもしれない、ということを知ってからのほうが良いです。
なんの覚悟もなく心の奥を見つめると「過去の亡霊」とか「悪霊」といって、心の闇を魔物に仕立て上げて、怖がるだけになっちゃうんですね。それで心の闇を解消したケースは知りません。
苦しいことはあるわけないもーん、知らないモーンといっていても忘れられていません。
そこで儀式するわけですね。youtubeで話の流れ、区切りを誰もがはっきりと設定していて、とてもわかりやすく、話しが変わることを示します。音楽を鳴らしたりして。
そういう単純な区切りをつけて、これまでのことはとりあえず忘れていいです、次に移りますといっています。テレビなどお話作る人は必ずやります。芸能界はこれが過剰です。
話しの展開で区切りがあることを、絶対に示します。
こういうわかりやすい区切りをつけて、過去のことを蒸し返さないんですね。
暗い、重い話は岡田さんが大笑いするみたいに、ジョークにしたり、軽くして話すもんです。
儀式なしで矛盾を解消するには、哲学みたいに必要以上に難しいことを言うしかありません。
それでも完全解消はしないですね。そう思うと、人は心の矛盾と付き合うしかないんですね。
それを知ったうえで、今後困ったときは工夫して考えましょう。
中国古典、西洋古典のような人生訓を考えたような立派な人と似たようなことが言えますよ。
比較的やりやすいのは、心はどういう仕組みで、どう動いて、人はどう考えることが多いとか
場合によって心理状態を簡単に言えるようになってください。
日本だけこれやってませんので、これやると本質的な問題を考えやすくなります。
長くなりましたが、こういうことは一生付きまといますので、早く気付いたほうが良い。
わからなくてもいいので、知っているだけでも構いません。
もともと、人生訓とか人間の本質のような難しいことは、子供の時から言葉だけに親しんでいました。
本を繰り返し読み、わからないなりに知りました。
本を読みながら生活し、人生経験を積んでから解釈していたのです。
10代でも人生訓、哲学は知っていいのです。
なぜなら、ある程度考えられる年齢になったら、何才だろうと本質的な疑問を感じるからです。
とりあえずこうしておこう、と考えないようにする。
ただ考えないようにするって難しいんで、儀式なんですよね。
単純作業するとモヤモヤってすぐ消えるんですよ。
何もしないでモヤモヤ消すのってすごく難しいです、結局何かしているほうが早いです。
たまたま何も考えないのが出来た人が、岡田さんみたいに「ただ考えない」とかするんですね。
私も一応は「ただ考えない」タイプですね。なぜ考えなくなったのか、珍しく覚えてます小学校2年の時に感じた事なんですけど。考えるのが無駄な生活と、考えてもわからないという2重の問題から、考えないのを選びました。これも儀式でしょうね。忘れるための。20代前半まで考えないで生きましたよ。
「ただ考えない」ってのはよほど頭悪いのか(私がそうですがw)、考えないほうが良いと思ったときですね(私がそうですが)。
考えて生きてしまった普通の正常人は、考えてしまうので、矛盾を解消するために忘れようとします。そのときに儀式が無ければいけない。何か単純作業をしないと消せないんですね。
もともと頭悪い私のような人は、そんなことせずとも頭止められたんですねw
岡田さんはその辺の自由が利くから、ただ考えないのも可能だったのかもしれません。
モノの記憶法がたぶん、学校でやったような方法とは違うと思いますので。
学校と違う方法でやる方が、後で思考の自由が利くんですね。
思考の自由が利かない、学校教育を守る人は頭の自由が利かない。どんなに簡単な言葉も思い出すのに苦労するでしょ。覚え方が違うんですね。
忘れないように努力しながら、心の奥底を掘り下げると、自分で自分の心の傷をえぐります。
「掘り下げていくと」と言っていたように、心の奥を見つめすぎるのって良くないんですね。
何があるのか知る程度にして、あまり自分を攻撃するようにいじらないほうがいいです。
心の奥を見つめるとかえって傷つくかもしれない、ということを知ってからのほうが良いです。
なんの覚悟もなく心の奥を見つめると「過去の亡霊」とか「悪霊」といって、心の闇を魔物に仕立て上げて、怖がるだけになっちゃうんですね。それで心の闇を解消したケースは知りません。
苦しいことはあるわけないもーん、知らないモーンといっていても忘れられていません。
そこで儀式するわけですね。youtubeで話の流れ、区切りを誰もがはっきりと設定していて、とてもわかりやすく、話しが変わることを示します。音楽を鳴らしたりして。
そういう単純な区切りをつけて、これまでのことはとりあえず忘れていいです、次に移りますといっています。テレビなどお話作る人は必ずやります。芸能界はこれが過剰です。
話しの展開で区切りがあることを、絶対に示します。
こういうわかりやすい区切りをつけて、過去のことを蒸し返さないんですね。
暗い、重い話は岡田さんが大笑いするみたいに、ジョークにしたり、軽くして話すもんです。
儀式なしで矛盾を解消するには、哲学みたいに必要以上に難しいことを言うしかありません。
それでも完全解消はしないですね。そう思うと、人は心の矛盾と付き合うしかないんですね。
それを知ったうえで、今後困ったときは工夫して考えましょう。
中国古典、西洋古典のような人生訓を考えたような立派な人と似たようなことが言えますよ。
比較的やりやすいのは、心はどういう仕組みで、どう動いて、人はどう考えることが多いとか
場合によって心理状態を簡単に言えるようになってください。
日本だけこれやってませんので、これやると本質的な問題を考えやすくなります。
長くなりましたが、こういうことは一生付きまといますので、早く気付いたほうが良い。
わからなくてもいいので、知っているだけでも構いません。
もともと、人生訓とか人間の本質のような難しいことは、子供の時から言葉だけに親しんでいました。
本を繰り返し読み、わからないなりに知りました。
本を読みながら生活し、人生経験を積んでから解釈していたのです。
10代でも人生訓、哲学は知っていいのです。
なぜなら、ある程度考えられる年齢になったら、何才だろうと本質的な疑問を感じるからです。
自分は今も肉を食うことに少し抵抗があるのだ。
フォアグラや豚が殺される、
いわば屠殺が自分にとって嫌に感じるぜ。
ま、自分に置き換えて考えたら
かなり理不尽な生き方に見えたからだな。
自分が命を大事にできる時が来たら、
植物だけでも栄養素を満たせるような
食生活を世界に広げていきたいぜ。
もう、働いていただいている農家等にしか
いただきますやご馳走様でしたを
言わなくていいように、
色々考えて行きたいぜ。
自分が食われる側でもあるって自覚がないからなんか傲慢に怒りもわくのかな。
食べるもの食べないものを善悪の感情で分けるのもくだらないと思う。
好き嫌い、美味い不味い、で良いと思うよ、食べさせてもらい生かせてもらってるんだから。
自分が死ぬ時は順番が回ってきたんだと思うようにしてる。
共通テスト国語の第一問思い出した〜
聞こえのいい儀式とカッコ悪い儀式w
常に抱えてる他者に対しての憤りとか反感を食肉を理由にして正当化してるんじゃないの?
これって両親や周りの大人達からの躾&教育で受け取り方が変わると思うけど、世界的にもある程度教養のある家庭で一定の人数で食べる時って大抵何かしらの感謝をしてから食べますね・・・無言で食べ始めるのは経験したことが無いかな・・・
投稿者のコレは食べるコレは食べないってまぁ早い話ただの贅沢でワガママな話だと思いますけどね・・・昔は『食べられない人も居るのよ!』って怒られましたなぁw
ただ単に典型的な厨ニ病ってだけやな痛々しい
野生動物も生きる為に、自分より弱い生き物を捕食しているわけで。
生きる為に肉を食うというのは、自然な行為なんですよね。
肉を食わないヴィーガンなんかは、自分たちを高貴な人間に見せたくて、そういうポーズをしているんだと、私は感じています。
めんどくせぇなぁ 生き物はほぼ他の生物食って、または邪魔して生きてるんだよ
そんなもん小学校の理科で習って納得するもんだろうが!
善し悪しなんてねえよ
肉、ウメェ!
だから、食べる!
そして、食う!
罪は気持ち薄っすらと感じているが、
とにかく、ウマいものは、いただけるものは全て食うのだ!
矛盾に思い至ったら、突き詰めれば自己否定に至ると分かるわけで、儀式以前に根本的に意味のない論理だって気づくでしょう。流転以外にルールのない世界を、人間本位のルールで自縛して、勝手に苦しんでるだけだって。