【元動画はこちら】↓ https://www.youtube.com/watch?v=EQuThK34U5I 【火垂るの墓シリーズ】↓ 【火垂るの墓①】清太は地獄の3ヶ月を … source Favorite0
晴太の表情は重荷からの「解放」ですかね高齢夫婦の老々介護もこんな感じなのかもしれない···· こうやって見返して「Oters」というニコールキッドマンの映画を思い出しましたあの母親と晴太には同じような気質を感じます本当は弱いのに「強くいなければいけない」っていう思い込みに囚われて、誰にも弱味を見せれなくて周りを巻き込んで不幸に突き進んでいく····みたいな
世界一悲しい映画だと聞いて見るのを避けてたけど岡田氏に触発されて見てみた。悲しい映画ではなかった。原作者の野坂氏が小説の中では優しい清太になって、義理の妹への贖罪を果たそうとしたが、高畑監督の清太への秘めた怒りが野坂氏に悟られないように映画の中で無限地獄を与えた映画の様に見えた。節子を餓死ではなく腸チフスで死なせたのも心中物の原作とは違う仕掛けの一つだと思うし、清太がつまみ食いしながら節子の火葬をしたのも監督の仕掛けだと思う。母の集団火葬(火垂るの墓)でもらった骨壺の中に母の骨はなかった仕掛けも感じる。ラストシーンの丘の上で清太のひざ元に節子はおらず、いくつかの視線の先は電車の中や親戚の家についた記憶の中の自分を見ているだけ。それは母に会えない煉獄中の自分である。たぶん、野坂氏は高畑氏の真意に気づかないであろう。清太の視線は電車の中の自分、親類の家の自分、横穴にいる自分です。それは映画全体の構成でもある。つまり、この映画は清太に煉獄を与える主題の映画だと思いました。戦後混乱期、腸チフスで亡くなった人は年間1万人いたそうです。駅にいた人たちはみんな餓死ではなくチフスだったように描写されています。でも清太を病死にしてしまうと煉獄は与えられないので自殺にしたのだと思います。
大切な家族が死んだ時「ホッとしてしまう」ような環境に置かれてることが何より悲しい。清太が現代において妹を亡くしたら絶対に悲しむし、逆に私たちが清太の立場になったら絶対にほっとしてしまうと思う。「当たり前の日常」が崩れたらどんな人でも堕落してしまうし悪人になってしまう。
自分にはもう頼れる大人もいなければ守らないといけないチビ(勿論愛する妹だろうけど、全く労働力にも相談相手にもならない年齢の相手なのでこう書く)もいない。お腹は仕方なく空くし身体中不潔で痛痒いけど、気持ちとしてはもう死んでもいい。もう何の躊躇もなくこの過酷な状況から逃げて死ねるし、きっともうすぐ自分にも死は訪れる…。そういった、安堵と絶望の境目の表情なんだと思いました。
逆にがつがつ食べてるシーンがないから、泣くこともなかったな。清太が冷静なのは、燃え尽き症候群。頑張る理由がなくなったから。さらに、お金も無くなった。なんで清太が悪者見たいな風に解説が聞こえてくるんだろう。 まさかそれが、何たら効果のせいで、俺自身がそう思い込んでるだけなのか?
ああ〜看護師で何人も見送ってきたんだけど、最初は引きずって家で帰って泣いたりしてたけど、今は自分の仕事中になくなってほしくないなーとか休憩時間なくなるわ〜とか死後処置したらご飯食べよっとか考えてた。どんどんそんな感じになってきて、一旦仕事辞めたんだけど、あれはきっと人間じゃなくなってたし、人間として患者さんを見てなかったんだろうなぁ〜。申し訳なかったなー出来ること多分もっといっぱいあったのに
清太が社会から距離を置いて節子と2人の家庭を築いて生活しようとするところまで走ってしまったのは、この戦争の空気の中で周りの人間が人間性を失っているのを目の当たりにしたからだと思う。清太自身が「人間性を失った」となるより先に、母親が焼かれた姿を見た時点で、そしてそれより前から避難した人たちの会話の中でも、「誰々が死んだ」とか「どこどこが焼けた」とかって悲壮な内容を淡々と話す人たちを見てきたからだと思う。そしてそれらは、「非常時」の恐怖の中で、現実に適応して生きていくためのある意味で仕方のない防衛的な行動であり反応だろうし、人々が冷たいわけではなく、ただそうして社会の中で他者と繋がって共有して生きていくしか当時は仕方なかった(悲しみを悲しんでいられない)だろうけど、瀕死の母親、死体となった母親、ただ焼かれる姿を前にして、それを妥当なことだとは清太は思えなかったと思う。父親が海軍の上官であること、節子の兄であることが、唯一清太をしっかりした人間として繋ぎ止めてたプライドだったんだろうと思う。節子を守って人間らしく生きようとすればするほど周りの人達とは合わせていけず、人間らしく生きようとするほどに社会から隔絶し、人間らしくいようとあればあるほど腹も空くし、節子が死んでホッとしたという思いにもなってしまう。それが彼を1番苦しめて、何度も何度もリプレイしてしまう後悔なんだと思う。そして、それは本当はこの時代の日本人の多くが背負う後悔なんじゃないかと思う。
この映画はいろんな人に観てほしいけど、勝手に美化した解釈はして欲しくないとは思っていた。しかしクレショフ効果が使われていると美化しちゃう人も多そうだなw
でもそれもまた一興。
綺麗ごとだけでは生きていけない
お話を知っているから、無表情と言われても悲しそうな表情に見えちゃう…
晴太の表情は重荷からの「解放」ですかね
高齢夫婦の老々介護もこんな感じなのかもしれない····
こうやって見返して「Oters」というニコールキッドマンの映画を思い出しました
あの母親と晴太には同じような気質を感じます
本当は弱いのに「強くいなければいけない」っていう思い込みに囚われて、誰にも弱味を見せれなくて周りを巻き込んで不幸に突き進んでいく····みたいな
作者の伝えたい事なんて
見てるやつには全然伝わらないんだなーって思った
00:57
いーーーーや飲まないんかい!!
世界一悲しい映画だと聞いて見るのを避けてたけど岡田氏に触発されて見てみた。悲しい映画ではなかった。
原作者の野坂氏が小説の中では優しい清太になって、義理の妹への贖罪を果たそうとしたが、高畑監督の清太への秘めた怒りが野坂氏に悟られないように映画の中で無限地獄を与えた映画の様に見えた。
節子を餓死ではなく腸チフスで死なせたのも心中物の原作とは違う仕掛けの一つだと思うし、清太がつまみ食いしながら節子の火葬をしたのも監督の仕掛けだと思う。母の集団火葬(火垂るの墓)でもらった骨壺の中に母の骨はなかった仕掛けも感じる。
ラストシーンの丘の上で清太のひざ元に節子はおらず、いくつかの視線の先は電車の中や親戚の家についた記憶の中の自分を
見ているだけ。それは母に会えない煉獄中の自分である。たぶん、野坂氏は高畑氏の真意に気づかないであろう。
清太の視線は電車の中の自分、親類の家の自分、横穴にいる自分です。それは映画全体の構成でもある。つまり、この映画は清太に煉獄を与える主題の映画だと思いました。
戦後混乱期、腸チフスで亡くなった人は年間1万人いたそうです。駅にいた人たちはみんな餓死ではなくチフスだったように描写されています。でも清太を病死にしてしまうと煉獄は与えられないので自殺にしたのだと思います。
見る人が独自に感じ取る表現って深いですね。わかりやすくする為、不自然に自分の気持ちを叫び出す表現よく見ますが、あれはシラケます。
この人すげーな。分かりやすい。
安易な感情移入を拒む無表情の凄み。大島渚の「少年」の主人公阿部少年の、感情を総て喪失したかのような顔が今でも忘れられない。
高畑勲さんの作品って
宮崎駿さんの作品に比べて言葉数少ない気がするね
もし本当に人間性を失ってたら節子食べるんじゃないかと思うんだけど?
シンエヴァでも悲しみに果てたシンジくんが、それでもレーションを食べるというシーンがありましたね。
この方の動画とても真剣に聞ける…面白い興味深い!チャンネル登録しました!
ホッとした、のくだりはかなりリアリティあるね。
今度は、はだしのゲンの感想をお願いします。
自分は最初のトラウマの作品です
火垂るの墓の主人公がゲンなら妹諸共余裕で生き残ってたという風潮
これ英語翻訳付けるべきやな
このシーンを初めて見た時からそう感じていた俺はサイコなのだろうか…
生前の節子とのやりとりには、もはや後悔が無かったのかもしれない。その人の人生は、その人が生きて、感じたことなのだから。そのことを理解していたから、かえって人間性のある男の子だったと気付かされる。
分かる。本当にストレスが溜まったり極限状態になると情緒の起伏がなくなって、人間性なくなるよね。
母が亡くなった時、ホッとしたな・・・
なんか親の介護で大変だった娘さんがいざ親が死んだ時何故かホッとしたって感覚と同じかな?
炭屋のおじさんの「裸にして豆殻と焼いたらよう燃えるわ」
って発言恐ろしすぎる
自閉症ですね。
エンディング?のポロンポロンポンみたいなのが癖になってる
大切な家族が死んだ時「ホッとしてしまう」ような環境に置かれてることが何より悲しい。
清太が現代において妹を亡くしたら絶対に悲しむし、逆に私たちが清太の立場になったら絶対にほっとしてしまうと思う。
「当たり前の日常」が崩れたらどんな人でも堕落してしまうし悪人になってしまう。
自分にはもう頼れる大人もいなければ守らないといけないチビ(勿論愛する妹だろうけど、全く労働力にも相談相手にもならない年齢の相手なのでこう書く)もいない。お腹は仕方なく空くし身体中不潔で痛痒いけど、気持ちとしてはもう死んでもいい。
もう何の躊躇もなくこの過酷な状況から逃げて死ねるし、きっともうすぐ自分にも死は訪れる…。
そういった、安堵と絶望の境目の表情なんだと思いました。
逆にがつがつ食べてるシーンがないから、泣くこともなかったな。
清太が冷静なのは、燃え尽き症候群。頑張る理由がなくなったから。
さらに、お金も無くなった。なんで清太が悪者見たいな風に解説が聞こえてくるんだろう。
まさかそれが、何たら効果のせいで、俺自身がそう思い込んでるだけなのか?
あれば大事にするが無くても困らない
私は既に人間性欠けていたようで…
ああ〜看護師で何人も見送ってきたんだけど、最初は引きずって家で帰って泣いたりしてたけど、今は自分の仕事中になくなってほしくないなーとか休憩時間なくなるわ〜とか死後処置したらご飯食べよっとか考えてた。どんどんそんな感じになってきて、一旦仕事辞めたんだけど、あれはきっと人間じゃなくなってたし、人間として患者さんを見てなかったんだろうなぁ〜。申し訳なかったなー出来ること多分もっといっぱいあったのに
この辺の清太の表情が不気味だなって思ったのは覚えてる
凄いかわいそうな話だけど多分こんな感じに追い込まれた人はこの頃の沢山居たんだろうなと思うと戦争という言葉を使うことすら憚られる気持ちになる
清太が社会から距離を置いて節子と2人の家庭を築いて生活しようとするところまで走ってしまったのは、この戦争の空気の中で周りの人間が人間性を失っているのを目の当たりにしたからだと思う。清太自身が「人間性を失った」となるより先に、母親が焼かれた姿を見た時点で、そしてそれより前から避難した人たちの会話の中でも、「誰々が死んだ」とか「どこどこが焼けた」とかって悲壮な内容を淡々と話す人たちを見てきたからだと思う。そしてそれらは、「非常時」の恐怖の中で、現実に適応して生きていくためのある意味で仕方のない防衛的な行動であり反応だろうし、人々が冷たいわけではなく、ただそうして社会の中で他者と繋がって共有して生きていくしか当時は仕方なかった(悲しみを悲しんでいられない)だろうけど、瀕死の母親、死体となった母親、ただ焼かれる姿を前にして、それを妥当なことだとは清太は思えなかったと思う。父親が海軍の上官であること、節子の兄であることが、唯一清太をしっかりした人間として繋ぎ止めてたプライドだったんだろうと思う。節子を守って人間らしく生きようとすればするほど周りの人達とは合わせていけず、人間らしく生きようとするほどに社会から隔絶し、人間らしくいようとあればあるほど腹も空くし、節子が死んでホッとしたという思いにもなってしまう。それが彼を1番苦しめて、何度も何度もリプレイしてしまう後悔なんだと思う。
そして、それは本当はこの時代の日本人の多くが背負う後悔なんじゃないかと思う。
急にドーラ姉さん出てきて沸いた
親父と仕事中に火垂るの墓をわんわん泣きながら観てたのはいい思い出